歴史ロマンが薫る街・兵庫県伊丹市。かつてここには、戦国武将・荒木村重が築いた日本最古の「惣構(そうがまえ)」城郭・有岡城がありました。惣構とは、城だけでなく侍町や町人町までを堀や土塁でぐるりと囲んだ「巨大な要塞」のことです。
その規模は南北1.7km、東西0.8kmにも及び、有岡城を訪れたイエズス会宣教師のルイス・フロイスは「甚だ壮大にして見事なる城」と称賛しています。

また、有岡城は「秀逸の城郭構造」だけでなく「壮絶な戦国史」という側面からも注目度の高い名城です。
それは、天正6年(1578年)に城主・荒木村重が織田信長に反旗を翻し、1年にわたる籠城戦(有岡城の戦い)を繰り広げた舞台であり、その裏では軍師・黒田官兵衛の幽閉や、一族・侍女らが辿った凄惨な末路といった史実が存在するからです。
有岡城をめぐる戦国ストーリーは数々の歴史小説やドラマにも描かれており、奇しくも2026年夏は大河ドラマ「豊臣兄弟!」や映画「黒牢城」でも注目を集めています。
そこで今回は、現代の街並みにひっそりと息づく有岡城の痕跡をめぐる歴史散歩に出かけてきましたので、その魅力をご紹介します。
主郭部から始まり、四方を守った砦や土塁、悲劇の歴史を伝える寺院まで。有岡城の主要スポットを歩きながら、戦国時代の息吹を感じてみましょう。

時空を超える歴史散歩は、JR伊丹駅の西口からスタートです!
有岡城主郭部 ~ 壮大な城の心臓部 ~

早速、駅前には有岡城跡への案内が出ています。実はJR伊丹駅が立地するこの場所は既に有岡城主郭部の中なのです。まずは「官兵衛ゆかりの藤」から見学していきましょう。
官兵衛ゆかりの藤

有岡城跡を訪れるなら絶対に外せないのが、主郭部の藤棚にまつわる歴史秘話です。
天正6年(1578年)、軍師・黒田官兵衛は織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得するため、単身で有岡城へ乗り込みました。しかし説得は失敗し、官兵衛は狭く薄暗い土牢に約1年間も幽閉されてしまいます。

絶望的な状況のなか、官兵衛が牢の窓から唯一目にすることができたのが、力強く美しく咲く「藤の花」でした。官兵衛はその生命力に満ちた姿を見て生きる勇気を得て、過酷な籠城戦を生き抜いたと伝えられています。
現在の藤棚は、この逸話を後世に伝えるため、官兵衛ゆかりの地である姫路城の藤から育てられた子孫の樹が植えられたものです。
ちなみに、藤の花は4月中旬から下旬が見頃です。
参考として伊丹市広報・シティプロモーション戦略課様のXの投稿を貼らせていただきます。
史跡 有岡城跡

有岡城跡は国指定史跡の城郭跡で、その主郭部は史跡公園として整備されており、当時の堅牢さを物語る見事な石垣や、当時の建物礎石、井戸跡などが発掘・復元されています。



石垣には墓石や五輪塔などの「転用石」が使われている箇所もあり、当時の緊迫した築城の様子を肌で感じられます。





本丸の西側には大規模な「切岸」と深く掘られた「堀」が今もダイナミックに残っており、織田信長の猛攻を1年近くも防ぎ続けた難攻不落の城の面影を現代に伝えています。

主郭部は道路で分断されており、南側にも土塁跡が残っています。そして、私が立っている茶色い土の部分は堀跡で、戦国時代はもっと深く掘り下げられていたと考えられます。

ちなみに、有岡城が築かれる前、この地には地元の有力国人である伊丹氏が拠点とした「伊丹城」がありました。
天正2年(1574年)、織田信長の命を受けた荒木村重に攻められ、伊丹氏は落城・追放されてしまいます。その後、城を譲り受けた村重が、これまでの城をベースに大改修を施し、最先端の惣構を持つ「有岡城」へと生まれ変わらせたのです。
「官兵衛ゆかりの藤」の隣には、伊丹氏時代の記憶を伝える貴重な遺物として、当時の建物内の土間に置かれていたとされる「沓脱石(くつぬぎいし)」が移設・展示されています。また、隣には伊丹城主の一族であった伊丹之親(ゆきちか)の歌碑も建てられています。
古城山 荒村寺 ~ 荒木村重ゆかりの寺 ~

主郭部の南端に位置する「古城山 荒村寺」は、その山号が示す通り、有岡城の廃城跡に佇み、城主・荒木村重の記憶を現代に伝える曹洞宗の寺院です。
荒村寺の歴史は、江戸時代の寛政年間(1789〜1800年)に、伊丹郷町の酒造家であった木綿屋徳三郎が禅宗に帰依し、和尚を招いて参禅するための庵室「城山庵(じょうざんあん)」を建造したことに始まります。その後、庵室を有岡城跡の地へ移転した際、荒木村重の古城跡であるという由緒から、彼の苗字と名から2文字を取って「荒村庵」へと改名されました。(昭和25年に現在の「古城山 荒村寺」となった)
荒村庵と名を改めたのは、荒木村重の菩提を弔うためとも言われています。

有岡城の落城時、荒木村重は親族や家臣を見捨てて脱出した武将として描かれがちですが、江戸時代の伊丹の人々にとって、彼は全く異なる評価をされていました。
当時、伊丹郷町は酒造りで大いに栄えていましたが、酒造りに不可欠な清らかな名水は、荒木村重がかつて有岡城下で行った先進的なまちづくり(井戸の掘削など)の恩恵であると考えられていました。そのため、伊丹の人々は先人への深い感謝を込めて、この庵室に村重の位牌を祀り、彼の菩提を大切に弔い続けたのです。
忠魂碑が建つ丘 ~ 城郭の一部か? ~

荒村寺の裏手にある高台の頂上には「忠魂碑」と書かれた慰霊碑が立っています。

忠魂碑は日清・日露戦争などの戦没者を慰霊・顕彰するために建てられたもので、村重が生きた戦国時代には無かったものです。しかし、この急峻な高台は往時の城郭の名残であると思われます。
惣構の東側は天然の要害だった
次はJR伊丹駅の東口を出て、有岡城惣構の東側の縁辺部を歩いてみましょう。🚶➡️
有岡城跡惣構図と現在の地図を見比べると、概ね現在のJR宝塚線に沿って惣構が形成されていたようです。

現在、JR伊丹駅の東側には商業施設や工場・住宅地などが広がっています。

戦国時代、有岡城惣構の東側には「猪名川」とその支流、そして広大な湿地帯であったと考えれます。猪名川から有岡城方面を望むと湿地帯の向こうに高低差最大8mほどの段丘崖がそびえていますので、敵兵が東側から攻め込むのは困難であったことが分かります。

惣構の縁辺部の名残と思われる、この用水路に沿って南へ歩いてみましょう。



宅地として造成されていますが、用水路を境に西側は高台になっています。
有岡城惣構の東側は伊丹台地の東端にあたる断崖になっており、その自然の高低差をそのまま城の防御ライン(天然の要害)として利用していたことが分かりますね。
次に惣構の南側の築かれた鵯塚砦跡を確認してみましょう。
鵯塚砦跡 ~ 南側の防衛線を担った砦跡 ~
鵯塚砦(ひよどりづかとりで)は、有岡城惣構の南端を守った砦であり、もともとこの地にあった「鵯塚古墳」の墳丘を城郭化して再利用されました。天正6年(1578年)に始まった織田信長軍との戦い(有岡城の戦い)では、荒木村重の重臣・野村丹後守や傭兵・雑賀衆らが守備に就き、南からの攻勢を阻み続けました。

鵯塚砦が築かれた場所は、現在マンションや私有地となっており、残念ながら城郭の遺構を確認することはできません。

マンションに隣接する「ひよどり広場」という名前が唯一残された痕跡と言えるでしょうか・・・。
次に、鵯塚砦跡から北西方向にある上臈塚砦跡へ向います。
有岡城跡・伊丹郷町遺跡 ~ 惣構の遺跡発掘現場 ~

上臈塚砦跡の少し手前、県道13号沿いマンション脇に「有岡城跡・伊丹郷町遺跡」の案内板があります。

案内板は劣化していて読みずらいですが、戦国時代における有岡城惣構の縁辺部の遺構と、江戸時代に発展した伊丹郷町の酒造りの遺構が確認されています。
ここは有岡城惣構の縁辺部にあたる場所ですが、発掘調査の結果、江戸時代後期に大規模な造成工事が行われた形跡があり、実際の縁辺部はマンションの敷地中央付近であったことが分かったそうです。
また、縁辺部の高低差は約3mで、自然地形を活かした防御線であったそうです。
有岡城主郭部からかなり離れたこの付近まで城の遺構が発見されているという事実に改めて驚かされます。
上臈塚砦跡 ~ 西側の防衛線を担った砦跡 ~

上臈塚砦(じょうろうづかとりで)は、有岡城の惣構の西側防衛線を担った重要な砦で、現在の曹洞宗 墨染寺からその西側のエリアに築かれていました。西国街道が惣構へと入る要衝に位置していたことから「昆陽口(こやぐち)砦」とも呼ばれていました。
有岡城の戦いでは、荒木村重の家臣である中西新八郎や宮脇勘兵衛らが守備に就きました。当初は織田方の滝川一益らの猛攻に対し頑強に抵抗を続けましたが、最終的には中西らの寝返りによって信長軍が城内へ乱入し、これが有岡城落城の決定打となりました。

墨染寺の境内には、有岡城落城にまつわる女性たちの悲劇的な歴史を伝える「女郎塚」がひっそりと佇んでいます。
天正7年(1579年)、有岡城を脱出した荒木村重に激怒した織田信長は、城に残された村重の親族や重臣、そして妻や侍女など多くの女性たちを捕らえ、凄惨な処刑に処しました。この塚は、その際に尼崎の地で命を落とした女性たちの菩提を弔うために築かれた供養塔です。
戦国乱世の非情さと女性たちの悲哀を今に伝える、胸が締め付けられるような歴史スポットです。

女郎塚の隣に建てられている立派な多層塔(九層石塔)は「荒木村重の供養塔」です。
天正14年(1586年)に堺で生涯を閉じた村重の遺骨は、本来の墓所がある京都の神禅寺(現・布袋寺)などに埋葬されましたと伝えられています。しかし、かつて彼が城主を務めたこの伊丹の地にも、その波乱に満ちた生涯をしのび、一族の霊とともに弔うためにこの供養塔が建立されました。
かつて見捨ててしまった妻や侍女たちの魂に寄り添うかのように配置されており、有岡城落城の悲劇と、その後の村重の悔恨や歴史の哀愁を今に伝えています。

戦国時代の人物ではありませんが、墨染寺の境内には、松尾芭蕉と並び称された伊丹出身の偉大な俳諧師・上島鬼貫(うえしまおにつら)とその息子を祀る「鬼貫親子(おにつらおやこ)の墓」があります。
「東の芭蕉・西の鬼貫」と称された偉人です。併せてお参りしておきましょう。

なお、墨染寺の裏手は惣構の縁辺部にあたり、その外側には堀が造られていたと考えられます。
惣構の中に造られていた堀跡
有岡城惣構の西側、南側、北側の境界線は城外と地続きになっていたため、人工の巨大な堀が造られ、その掘り下げた土を使って内側に土塁を盛り上げることで、外敵の侵入を阻んでいたと考えられます。
さらに、近年の発掘調査では惣構の内部にも堀跡の遺構が発見されているようです。確認してみましょう。
伊丹老松酒造付近の堀跡


町人町のエリアから堀跡が見つかったことを示す案内板があります。この堀も荒木村重による有岡城改造の一環として造られた防御施設で、幅3.8〜4.5メートル、深さ1.5〜1.7メートルに及ぶ本格的な堀であったことが確認されています。

現在、堀跡を見ることはできませんが、「伊丹老松酒造」の前の歩道上に黒いタイルを敷き詰めることで、当時の堀跡が表現されています。
ニトリ付近の堀跡

「伊丹老松酒造」の前から西へ進みます。この付近は江戸時代に酒造りで栄えた伊丹郷町の中心部で、伊丹酒造通りと呼ばれています。

「伊丹老松酒造」から150メートルほど西へ進むと「ニトリ」があります。この付近で行われた発掘調査では、戦国時代と江戸時代の遺構が上下に重なる形で検出されています。

ニトリの前の案内板によると、下層からは有岡城の堀跡が発見され、その堀の幅は約6メートル、深さは約3メートルに達し、本丸周囲の内堀に次ぐ大規模なものだったそうです。
このように、有岡城では惣構の縁辺部だけでなく、内部にも多重に堀が掘られており、敵兵が容易に本丸へ侵入できない構造になっていたのです。

その後、有岡城の廃城を経て江戸時代前期になると、伊丹の酒造業の発展に伴い、この堀を埋めた位置に石造りの排水路である「大溝(おおみぞ)」が築かれました。大溝は幅1~1.2メートル、深さ1~1.5メートルで、松の丸太や廃船の板材を敷いた上に割石を積み上げる高度な技術が用いられたそうです。ニトリの店舗前には、その精巧な石組みの大溝がリアルに復元・再現されています。
次は惣構の北側の防衛拠点「岸の砦」へ向かいましょう🚶➡️
岸の砦跡 ~ 北側の防衛線を担った砦跡 ~

南北1700メートルに及ぶ有岡城惣構の中で最北端に位置する「岸の砦」は、現在の猪名野神社の境内一帯がその跡地に当たります。
有岡城の戦いの際には、荒木村重の重臣・渡辺勘大夫(わたなべかんだゆう)がこの砦を守り、信長軍の猛攻を迎え撃ちました。

当時の厳重な防衛線の名残である土塁の跡が良好な状態で残されていることから、「岸の砦跡」は国の史跡に指定されています。

こんもりとした土塁跡が続いており、往時の要塞都市としての緊迫感を今に伝える貴重な遺構となっています。

土塁の外側(道路部分)には掘があったと考えられます。

御由緒略記によると、猪名野神社は荒木村重がやってくる570年ほど前から、この地に鎮座していたそうです。荒木村重が惣構を北へ拡張しようとした際、そこに古くから伊丹の人々に信仰され、かつ軍事的に絶対的なアドバンテージを持つ高台(段丘崖の縁)を見つけ、「神社の境内ごと要塞化して北の防衛拠点にしよう」と考えたのでしょう。
神様を味方として取り込もうとした村重のしたたかな戦略が垣間見えるスポットです。

有岡城の主郭部に位置するJR伊丹駅まで戻ってきました。
戦国武将・荒木村重のセンスと執念が詰まった「惣構の城」は、後の大坂城や小田原城、江戸城などの先駆けとなり、当時としては最先端の防御システムでした。そして、その城郭と戦いの痕跡は現代の伊丹市にひっそりと息づいています。
高度な軍事戦略の結晶でありながら、悲劇の記憶を色濃く残すこの二面性こそが、今なお多くの人々を惹きつけてやまない理由なのでしょう。
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