平安時代末期、時の権力者・平清盛は瀬戸内海交易を掌握し政治の主導権を強めるため、港に近い兵庫の地に新たな都を築こうとしました。その名は「福原京」です。
清盛が平安京からの遷都を強行し、平家一門の栄華の舞台となった「福原京」は、現在の神戸市兵庫区周辺にあったとされています。わずか半年という短命の都に残された清盛や平家ゆかりの史跡を巡りながら、当時の優雅な営みや激動の歴史の足跡をたどる街歩きに出かけてみましょう。

では早速、神戸高速鉄道・新開地駅の7番出口からスタートしましょう🚶➡️
厳島神社 ~ 平家一門の氏神 ~

厳島神社(兵庫弁天)は、治承4年(1180年)の福原遷都と大輪田泊の修築に際し、平清盛が勧請した神社で安芸国(現在の広島県)の厳島明神を祀り、新都の王城鎮護や兵庫の町の繁栄、海上交通安全を祈願しました。

もともと、平清盛と安芸国(現在の広島県)の厳島神社はとても深い縁がありました。
久安2年(1146年)、清盛が安芸守(安芸国を管轄する国司)に任じられたことをきっかけに、厳島神社を深く崇敬するようになります。
平家物語などの伝承によると、清盛が高野山大塔の修理を任されて参詣した際、一人の老僧から「荒廃している安芸国の厳島神社を立派に修造すれば、お前は必ず武士としての最高位を極めることができるだろう」という神秘的なお告げ(夢告)を受けたそうです。
このお告げを信じた清盛は、厳島神社の造営に力を尽くし、実際に平家が異例の出世を遂げたため、一門を挙げた絶対的な信仰へとつながっていきました。
また、当時の平家にとって最大の経済基盤は、中国(宋)との交易を行う「日宋貿易」でした。 安芸国の宮島は、瀬戸内海航路のまさに中心に位置する重要な拠点です。厳島神社は古くから「海上交通の守り神」として信仰されていたため、この神社を味方につけ、現地の豪族と深く結びつくことは、瀬戸内海の制海権を握り、貿易船の安全を確保するために極めて実利的な意味を持っていました。
つまり清盛にとって厳島神社は、「平家を大出世させてくれる最高のパワースポット」であると同時に、「日宋貿易で巨万の富を生み出すための最重要拠点」でもあったため、生涯にわたり深く崇拝し続けたというわけです。

平清盛は福原京の周囲7ヶ所に厳島神社を勧請し、それらは「清盛七弁天」と呼ばれました。
そのうち、この厳島神社(兵庫弁天)以外の弁天社は別の寺社に併祀されたのに対し、ここだけが独立していたため、かつて渦輪にあった弁天社を合祀して存続しています。

清盛が大輪田泊の築港に着手した頃、夢に天女が現れ「私のために社を建てれば、この海を暴風雨から守り、望みを成就させよう」とお告げがありました。清盛はこのお告げに深く喜び、港の守り神として厳島明神を祀ったと伝えられています。
厳島明神をお祀りする場所を探していた時、本殿の裏にあった樹齢千年に及ぶ老松の梢に燈火がかかるという吉兆な現象が現れたため、清盛はこの地を社地に定めたそうです。
この松は「龍燈の松」と呼ばれ親しまれていましたが、残念ながら戦災により焼失してしまいました。現在、境内には2代目の「龍燈の松」が植えられています。
願成寺 ~ 福原五山の二番に位置付けられた寺院 ~

神戸電鉄湊川駅の西側に位置する願成寺は浄土宗の古刹であり、平家ゆかりの寺院でもあります。
願成寺はもともと天平年間(729~749年)に開かれた「観音寺」という古いお寺でしたが、平清盛が福原遷都(1180年)を計画した際、当時の名僧であった法然上人の弟子・住蓮坊をこの地に迎え入れました。新都建設という激動の時代背景の中で寺名が「願成寺」と改められ、浄土宗の寺院として新しく中興されたと伝えられています。
さらに清盛は、京都の禅寺の格付け制度である「京都五山(五山制度)」に因んで、新都・福原の周辺にある有力な5つの寺院を独自に格付けし、願成寺は「福原五山の二番」に位置付けられました。

境内奥には源平合戦(一ノ谷の戦い)で散った平通盛と、その悲報に接して海へ身を投げた妻・小宰相局を供養する「平通盛 小宰相局 比翼塚」と呼ばれる五輪の石塔が静かに佇んでいます。
通盛は清盛の甥にあたり、平家一門の中でも戦の前線で体を張った若武者でした。また、妻・小宰相局は当時の宮廷で一、二を争う美女であったと伝えられています。
比翼塚の「比翼」は、中国の伝説に登場する、雄雌が一体となって初めて空を飛べる「比翼の鳥」に由来し、固い絆で結ばれた夫婦の象徴とされています。戦死した夫・平通盛の後を追って、妻の小宰相局も海へ身を投げたという切なく一途な夫婦愛を後世の人々がこの伝説の鳥になぞらえて名付けられました。
夢野 熊野神社 ~ 皇城鎮護の神 ~

六甲山麓の夢野と呼ばれる地域に「熊野神社」が鎮座しています。
平清盛が福原遷都の際、後白河法皇が篤く崇敬していた紀州熊野権現を、新都の「皇城鎮護の神」として東向きに勧請したと伝えられています。

参道を進むと本来なら正面には社殿ではなく手水舎が見えます。

手水舎の西側に社殿が建っており、神様の目線は東を向いています。
清盛が築いた福原京(現在の神戸市兵庫区周辺)から見て、この熊野神社は「北西(乾・いぬい)」の山側に位置しています。神社を東向きに建てるということは、神様の目線が「福原京全体」を広く見据える形になり、文字通り都を「鎮護」するためにあえて東向きに配置されたと考えられます。
後白河法皇は「熊野詣」に34回も出かけるほど大の熊野信者でした。
清盛が福原遷都という強引な計画を進めるにあたり、法皇が最も崇拝する熊野権現を新都の守護神として、しかも都を見守る方位(東向き)に祀り上げたことは「この新しい都は法皇様のためでもあるのですよ」という、清盛流の強力なアピール(政治的ポーズ)でもあった考えられます。
氷室神社 ~ 源平合戦・陣場の井 ~

熊野神社から住宅街の坂道を更に上ったところに「氷室神社」が鎮座しています。

氷室神社の歴史は古く、仁徳天皇の時代(西暦374年)に、仁徳天皇の兄・額田大中彦皇子がこの地で氷室(氷を貯蔵する洞窟)を発見し、その氷を仁徳天皇に献上したことが始まりとされています。
平安時代末期には、福原遷都に際して平清盛が安芸国・厳島神社より御祭神を勧請し祀ったとされています。(清盛七弁天のうちの一社)
付近には清盛の弟・教盛の別邸があり、その邸内に後白河法皇が幽閉されていました。
源平合戦の折には、清盛の甥・教経(教盛の次男)の陣所があり、当時の氷室神社からは豊富な清水が湧いたことから『陣場の井』と呼ばれました。

さらには、一ノ谷の戦いの前に清盛の甥・通盛とその妻・小宰相局がこの地で最後の別れを惜しんだという哀話から、「恋愛成就」や「縁結び」の神様として高い人気を集めています。
ちょうど、氷室神社の西側には、一ノ谷の戦いで源義経が駆け下った鵯越の逆落としの地があります。

境内の奥には、古跡・氷室が残されていますが、生憎この日は立ち入り禁止でした(木が倒れて電線に引っかかったとのこと)

氷室神社の近くにある氷室公園からは、かつて福原京があったとされる神戸市兵庫区方面の街並みを望むことができます。
夢野八幡神社 ~ 新都の位置を測定した地 ~

氷室神社から東へ400メートルの場所に鎮座する「夢野八幡神社」は、福原京の建設に直結する云われのある神社です。

治承元年(1177年)、平清盛が福原への遷都を計画した際、新都の繁栄と守護を祈願してこの地に八幡神社を創建しました。

かなり急な階段で、湧き水で濡れているので注意が必要です。

平清盛は、自ら所有する荘園「福原荘」の全域が展望できるこの地で “ のろし ” をあげて、新都の位置を測定したと伝えられています。
清盛自身がこの境内から見渡して新都の区画を決めたのでしょうか。壮大な歴史ロマンが残された神社です。
雪見御所旧跡の碑 ~ 清盛の邸宅跡 ~

夢野八幡神社を東へ下って700メートルほどの場所に「雪見御所旧跡の碑」が立っています。
平家物語によると、平清盛は福原の地にいくつかの邸宅をもっており、その中でも特に名高い「雪見御所」があったとされる場所です。明治39年(1906年)に旧・湊山小学校の校庭から往時の庭園造りに使われていたとみられる巨石が掘り出され、明治41年に当時の校長らの尽力によって「雪見御所旧跡」の石碑が建立されました。

その後の発掘調査では、敷地の南限を画する石垣の遺構が確認されています。
また、当時の貴族の日記によると、雪見御所の北側に安徳天皇が過ごした本皇居「平野殿」があったことや、近隣に清盛の三男・宗盛の邸宅があったこと記されているそうです。

現在、周辺の地名には「雪御所町」の名が残されており、清盛が雪景色を眺めながら新都の行く末に思いを馳せた「福原京」の栄華を今に伝えています。
湊山温泉 ~ 清盛が愛した名湯 ~

旧湊山小学校(現:みなとやま水族館)の先にある信号を渡ると、このような案内板が出ています。「平家ゆかりの里」や「平家の湯」など、平家との深い繋がりを感じる案内板です。

200メートルほど進むと、1889年創業の歴史ある日帰り入浴施設「湊山温泉」あります。
なんと、この湊山温泉は平清盛も湯治したとされている名湯だそうです。

日本最古の温泉・有馬温泉からも近い湊山温泉。今から850年以上前の平安時代から湧いていたとしても不思議はないでしょう。
祇園神社 ~ 経ヶ島築造計画策定の地 ~

湊山温泉からほど近い高台に佇む「祇園神社」は、貞観11年(869年)創建の歴史ある神社で、古くから“ 平野の祇園さん ” と親しまれています。
御由緒によると、京の都で流行した疫病を鎮めるため、姫路の広峯神社から京都の八坂神社(祇園社)へ素戔鳴尊の分霊を移す際、その神輿がこの地で一泊したことが始まりと伝わります。

祇園神社は平清盛とも縁が深い神社です。
日宋貿易の要となる大輪田泊の改修に取り組んでいた頃、清盛は祇園神社の裏山に潮音山上伽寺を建立し、そこで海の潮の響きを聞きながら人工島「経ヶ島(防波堤となる島)」の築造計画を練ったと語り継がれています。

境内へと続く88段の石段を登りきると、清盛も眺めたであろう神戸の市街地や港までを一望できる、素晴らしい見晴らしが広がっています。

境内西側の奥には「一願石」と呼ばれる霊石が創建当時から鎮座しており、古来より神が宿るとされています。
真心を込めて願い事をすると、その願いが成就するとされる一願石。清盛もこの一願石の前に立ち、手を合わせて福原京と平家一門の繁栄を願ったのでしょうか。
塞神の碑・塞神の松跡・祇園遺跡


祇園神社から100メートルほど下った場所に広場があり、「塞神(さえのかみ)の碑」と「塞神の松跡の碑」が立っています。
かつてこのあたりには東西に通る古代からの人道「古道街道」があり、「塞神」は街道を往来する旅人らの道中の安全を守ってくれる道祖神として言い伝えられています。また、このあたりに大きな松があり、沖を行く船がこの松を見て舵を直したといわれるほどの名木だったそうです。

平成6年、この公園の前を通る国道428号線(有馬街道)の拡幅整備工事に伴う発掘調査が行われました。ここ上祇園町周辺に広がる遺跡は「祇園遺跡」と呼ばれています。

発掘調査では、底に石を敷く池がある庭園の遺構が検出されたほか、多量の瓦とかわらけ、愛知県南部の渥美地方で焼かれた陶器の甕(かめ)、中国産の白磁・青磁(小皿)などが出土しました。
瓦が出土したということは瓦葺きの建物があったはずです。特に京都で生産された瓦が多く含まれていることから、都との密接なつながりを示す重要な証拠と考えられています。
また、甕(かめ)は、東国からわざわざ海路で運ばれてきた一級品の焼き物ですし、中国産の小皿は清盛が巨万の富を築くきっかけとなった「日宋貿易」によってもたらされた超高級輸入品です。
清盛や平家一門、そして海外からの賓客たちが夜な夜な集まり、新都の未来を語り合う「国家規模の大宴会」が繰り広げられていた情景が目に浮かびます。
祇園遺跡は、ごく一部が見つかったに過ぎません。福原京の中心地と想定されるこの地下には、まだ多くの遺跡が眠っていることでしょう。
福原京の中心地・平野 ~ 清盛愛に満ちた商店街 ~

祇園遺跡の解説板からほど近い、有馬街道と山麓線が交差する平野交差点には、若かりし頃の平清盛像が建っています。鎧をまとい、力強く右手を掲げた凛々しい武勇姿です。

平野交差点を中心に平野商店街が広がっており、「平清盛ゆかりの郷」と書かれた案内板も見られます。
平野商店街の一画からも祇園遺跡の出土が確認されており、この「平野」と呼ばれる地域がまさに福原京の中心地であったと考えられています。

平野商店街にはマスコットキャラクター「きよもん」の姿も至る所で見られ、清盛が造営した都「福原京」の中心地として、歴史ファンの心をくすぶる盛り上げ策が施されています。
ちなみに、「きよもん」の座右の銘は「前進あるのみ」、趣味は「平野商店街でショッピング」だそうです。

仁安3年(1168年)、清盛は病に倒れたことを機に出家して「浄海」と名乗るようになりました。
商店街の南端に立つ「浄海入道・平清盛」の像は、頭を丸めて僧衣を身にまとった出家後の姿を捉えた印象的な緑色の像です。宗教的な凄みと不屈の政治的野心を併せ持ち、福原遷都を強行した頃の清盛の姿であり、一時代を築いた清盛の壮大なロマンを今に伝えるモニュメントです。
荒田八幡神社 ~ 安徳天皇の行在所 ~

平野商店街から600メートルほど南にある「荒田八幡神社」は、平清盛の弟・頼盛の山荘跡に鎮座する神社であり、境内には「安徳天皇行在所跡の碑」や「福原遷都八百年記念碑」も建ち並ぶ、歴史散歩には外せないスポットです。


荒田八幡神社があるこの地は、治承4年(1180)6月3日の福原遷都の際に安徳天皇の行在所(仮の御所)となりました。境内は周囲より一段高く、昭和13年の神戸大水害の時にも付近一帯が泥海の中に島のよう見えたそうです。そのような安全な立地であることは、この地が行在所に選ばれた理由の一つであったと考えれます。

第81代天皇である安徳天皇は、平清盛の孫にあたり、日本の歴史上最も幼くして悲劇的な最期を遂げた天皇です。
安徳天皇は、平清盛の娘である平徳子(建礼門院)と高倉天皇との間に生まれました。平氏の権勢を背景に、治承4年(1180年)にわずか3歳(数え年)で即位しました。即位のわずか2ヶ月後、祖父である清盛の主導によって京都から福原への遷都が行われます。このとき、幼い安徳天皇が行在所として滞在した場所が現在の荒田八幡神社の地です。
源氏の挙兵によって平氏の勢力が衰退すると、一門とともに都を落ち、西国へと流れていきました。そして寿永4年(1185年)、源平合戦の最終決戦である「壇ノ浦の戦い」において平氏の敗北が決定的となった際、祖母である二位の尼(清盛の妻・時子)に抱かれ、三種の神器とともにわずか8歳(満6歳)で関門海峡の海へと身を投じて崩御しました。
「波の下にも都がございます」という祖母・平時子の言葉とともに海に消えたエピソードは、軍記物語『平家物語』のクライマックスとして今も語り継がれています。

「福原遷都八百年記念の碑」は、治承4年(1180年)に平清盛が主導した「福原遷都」から、ちょうど800年目を迎えた昭和55年(1980年)6月3日に建てられました。この碑は、一時的とはいえ神戸の地が「日本の首都」となり、近代国際貿易港・神戸の源流とも言える「日宋貿易の拠点」として機能した歴史的意義を後世に伝える重要なモニュメントです。
現在の福原町 ~ 福原京の名前だけを受け継いだ街 ~
ここまで幻の都「福原京」に思いを馳せながら、ゆかりの地を巡ってきましたが、「福原」という地名は今でも残っているのでしょうか。

答えはYES。神戸市兵庫区福原町という地名が今でも存在しています。
ただし、福原町を散歩しても、かつての「福原京」を偲ぶものは見当たりません。それは、福原町という地名が明治以降につけられたものであり、清盛が造営した「福原京」と直接の関係がないためです。

直接の関係はないものの、間接的な関係はあります。
神戸が開港した直後の明治元年(1868年)、現在の神戸駅付近に公認の遊郭が作られました。この際、かつての都にあやかり「福原遊郭」と命名されたことが、現代に続く「福原町」のルーツです。
その後、鉄道建設に伴い神戸駅が造られることになったため、「福原遊郭」は現在の場所(当時は旧湊川の東側にあたる荒地だった)に移転しました。そして、湊川の付け替え工事が行われたことをきっかけに誕生した繁華街・新開地とともに福原の街も発展し、地名としての「福原」が根付いたというわけです。
現在の福原町はかつての「福原京」の名前だけを受け継いだものの、都の中心部からは離れており、政治的な拠点が置かれていたわけではありませんのでご注意ください。
最後は平安時代末期から外れましたが、今回の歴史散歩はいかがでしたか。
六甲山系の瑞々しい緑に抱かれた山麓の高台こそが、はるか850年ほど前に平清盛が日本の新首都として選び、安徳天皇をお迎えした激動の歴史の舞台そのものです。
僅か半年で幕を閉じ、まだ多くの謎が残されたままの福原京ですが、かつてこの地に煌びやかな都が存在したという歴史の足跡を是非皆さんの目で確かめてみてください。
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