今回は大阪港の歴史とユニークな地形がギュッと詰まった「天保山公園」を歩いた記録をお届けします。
地名としての天保山といえば、世界最大級の水族館・海遊館がある場所として全国的にも有名で、多くの人にお馴染みの観光地です。一方、標高わずか4.53メートルという日本一低い山「天保山」に登ったことがある方は少ないのではないでしょうか。
実際に現地に行ってみると、そこには幕末の海防を担った台場跡の記憶や、近代国際貿易港としての第一歩を刻んだ貴重な遺構など、歴史好きにはたまらないディープなスポットが散りばめられていました。そんな奥深い天保山公園の見どころを詳しくご紹介します!

今回の歴史散歩は大阪メトロ中央線・大阪港駅からスタートします🚶➡️
駅舎は海をイメージした鮮やかなブルーの駅舎が印象的ですね。
こちらの2番出口から天保山エリアへ向かいましょう!

天保山のシンボル「天保山大観覧車」が目の前に!
1997年に開業した直径100メートルの巨大観覧車で、一時は世界最大だったそうです。

天保山交差点を直進します🚶➡️
天保山公園入口

天保山公園に到着です。

天保山公園は昭和33年に開設された公園。日本一低い山「天保山」があり、桜の名所としても有名です。
錦絵で紐解く天保山の成り立ち

公園の入口を入ってすぐの防潮壁には、江戸時代に描かれた天保山の錦絵が紹介されおり、まるで美術館のようです。一枚ずつ確認してみましょう。

この絵には天保2年(1831年)に始まった安治川河口の工事の様子が描かれています。
当時、洪水防止と大型船の航路確保のため、幕府の命により川底の土砂をさらう工事が行われました。500艘もの船が集まり、大勢の人足たちがお祭り騒ぎのように作業を展開。こうして集められた大量の土砂が積み上げられ、人工の山「天保山」が誕生しました。

この絵は川を往来する船と、その傍らに築かれた天保山の姿を捉えています。
安治川を上って大坂の街へと向かう船にとって、天保山は格好の目印となったことから「目印山」とも呼ばれました。また、夜間航行の安全を守るために「高灯籠(灯台)」が設けられるなど、船乗りたちの重要な道標として機能していました。

この絵は、幕末の大坂を代表する浮世絵師・南粋亭芳雪によって描かれた名所絵です。
画面手前に大胆に配置された巨大な柱「澪標」は、航行する船に水深の深い安全な水路を知らせるための標識であり、川と海との境である「一之洲」から川上に向かって十番まで設置されていました。一番の澪標は、上部の形から「鯖の尾」とも呼ばれ、浪花第一の景物となり、のちに大阪市の市章のもとになりました。

山と周辺の整備が進むと、天保山は一大観光地へと変貌を遂げます。この錦絵には当時の賑わいがパノラマ風に描かれてます。
山には松や桜の木が植えられ、見晴らし堂や掛茶屋が軒を連ねました。晴れた日には生駒山や金剛山、淡路島まで見渡せる絶景の名所として、お花見や涼み舟を楽しむ多くの庶民で大いに賑わいました。
このように栄華を誇った天保山ですが、幕末になると外国船の来航に備えた砲台(台場)建設のために切り崩され、かつての風光明媚な姿は失われてしまいます。
そして戦後になると、ウォーターフロントの開発とともに市民の憩いの場として再び整備され、昭和33年(1958年)に現在の「天保山公園」が開園したのです。
「目印」となった高灯籠のレプリカ


歌川広重の浮世絵にも描かれた通り、江戸時代の天保山には夜間航行の安全を図るために大きな高灯籠が建てられていました。現在ここに建っているのは、浮世絵に描かれている高灯籠をモチーフにしたレプリカです。
かつて船を導いた灯りが、今は公園の記憶を照らす灯りとなり、時代の流れ感じることができるスポットになっています。
「坂本龍馬・お龍」新婚旅行 出帆の地

高灯籠に掲示された案内板(かなり劣化していますが・・)に示された通り、ここ天保山は坂本龍馬と妻・お龍(おりょう)が新婚旅行に出帆した記念すべき場所です。
慶応2年(1866年)1月、京都・伏見で起きた寺田屋事件で九死に一生を得た龍馬は、西郷隆盛らの勧めもあり、傷の療養と政局回避のため、お龍を連れて薩摩(鹿児島)へと赴くことになりました。
同年3月4日、二人はここ大坂の天保山から薩摩藩の蒸気船「三邦丸」に乗り込み、鹿児島へ出帆しました。その後、現地で霧島の観光や高千穂峰への登山を楽しむなど、仲睦まじく幸せな旅路を送ったことから、これが「日本初の新婚旅行」とされています。

現代では当たり前となった新婚旅行ですが、江戸時代にはそのような文化はありませんでした。坂本龍馬とお龍の新婚旅行は、日本初の新婚旅行として、現代にも受け継がれる歴史の1ページを開いたのです。

続いて、山頂を目指します!
天保山の山頂はどこ?

公園の奥にある広場の片隅に「日本一低い山」と書かれた看板が立っています。
ここが天保山の山頂で、標高は4.53メートルです。思ったより地味なのですが、観光客にも人気のフォトスポットとして知られています。

日本一低い山を説明する際、補足説明としてよく出てくるワードが「三角点」です。天保山の山頂を表す看板の脇にも「三角点」の標識があります。

さらに厳密に言うと、「三角点」は “三角点 ” と書かれた白いプラスチックの棒ではなく、十字の刻印がある石製のもの(標石)です。天保山の場合、三角点の標石は看板の手前の石畳に埋め込まれています。

まさに、この標石の上面の標高が4.53メートルを指すピンポイント地点なので、記念撮影をする際は、この標石を構図に入れたり、指さしたりするのがベストかと思います。
ちなみに、「三角点」とは、国土地理院が測量や地図作りのために設置した基準点のことであり、三角点には正確な位置(緯度・経度・標高)が記録されています。また、三角点には一等から四等までの「等級」があり、数字が小さいほど、より広域をカバーする「大もとの重要な基準点」になります。
実は地形図に載る全ての山の中で最も低い山は、宮城県仙台市にある「日和山(ひよりやま)=3.0メートル」なのですが、「二等三角点のある山」としては天保山が「日本一低い山」なのです。
※日和山は三等三角点のある山
天保山が低くなった理由とは
天保山の山頂付近を海側から見ても、そこに山がある感じが全くありません。

江戸時代の錦絵に描かれた山は何処へいったのでしょうか?
天保山の標高が低くなった理由は大きく分けて次の2つです。
1.幕末の台場建設による「切り崩し」
嘉永6年(1853年)のペリーの浦賀来航以後、外国船の来航に備えるための海防が急務となりました。そこで幕府は大坂の防衛拠点として安治川河口に大砲を据える「台場」を築くことを決定します。

この台場の建設スペースを確保するため、また大砲の視界を確保するためなどの理由から、天保山の大部分が削り取られ、この段階で大幅に標高が下がりました。
2. 高度経済成長期の「激しい地盤沈下」
現在の高さにまで下がった決定的な要因は、昭和の高度経済成長期に起きた地盤沈下です。 工業用水などの確保のために周辺一帯で大量の地下水がくみ上げられた結果、臨海部である天保山周辺の地盤が激しく沈下しました。
江戸時代の誕生当初は18メートルほどの高さがあったとされる天保山の歴史は、「削られ、沈んだ」歴史でもありますが、そのおかげで図らずも「日本一低い山」というユニークな個性を獲得し、今も多くの登山者(観光客)を楽しませる憩いの場となっているのです。
明治天皇観艦之所 ~ 我が国初の観艦式の記念碑 ~

明治元年(1868年)4月18日、明治天皇は軍事力の近代化と海防の重要性を国内外に示すため、天保山に行幸されました。そして、安治川の河口に集結した近代海軍による観艦式をこの地からご覧になりました。これが日本における「初の観艦式」とされています。

当日は、各藩から集められた軍艦6隻が安治川河口に集結していたそうです。
かつて景勝地であった天保山は、幕末になると外国船を警戒するために砲台が築かれた場所であり、国防上の要衝と位置付けられていたことから、記念すべき観艦式の場所として選ばれたのです。
現在、記念碑のすぐ向こう側には安治川の河口と海が広がり、天保山大橋が架かる近代的な港湾風景となっていますが、近代日本の一歩を象徴する重要な歴史的スポットなのです。
天保山渡船場 ~ 明治38年に開設された渡し船 ~

天保山渡船場は、天保山公園側と此花区桜島3丁目を結ぶ公営の渡船場です。岸壁間の距離は約400メートルで、明治38年(1905年)に大阪港の繁栄を目的とした港湾振興策の一環として開設されました。

道路の代替(道路法に準じる扱い)として運行されているため、乗船料は無料です。自転車で利用する人が多いようです。


昼間は30分に1本の間隔ですが、朝・夕は15分間隔になる時間帯もあります。観光利用だけでなく、普通に市民の足として使われています。
乗船している時間は僅かですが、海の上から天保山大橋や大きな船を間近に見上げることができ、ちょっとしたミニクルーズ気分を味わえそうです。
西村捨三翁 顕彰碑

天保山公園内には「大阪港の父」と称される西村捨三(にしむらすてぞう)の功績を称える銅像が建立されています。
西村捨三は明治22年に第4代大阪府知事に就任しましたが、就任当時の安治川河口は浅く、海外からの大型貨物船が直接入れないという致命的な弱点がありました。そこで西村捨三らの主導により、海を大規模に埋め立て深い航路を開くという「大阪築港の大工事」が始まり、今日の国際貿易港・大阪港の基礎を築きました。

銅像の傍に設置されている『大阪築港基石』は、起工式が行われた明治30年10月17日に工事の成功と安全を祈念して最初の基石として海中へ投下されたものです。
まさに「ここから近代的な国際貿易港としての大阪港の歴史が始まった」という最初の一歩を記念する大変価値のある基石なのです。
朝陽岡 ~ 彦根藩主・井伊直憲と西村捨三の思い出の石碑 ~

西村捨三像の後方には朝陽岡と刻まれた歴史的な石碑が設置されています。
この石碑はもともと、彦根藩主・井伊家の名勝庭園「玄宮園」にあった名石でした。西村捨三は少年時代、のちに16代藩主となる若き井伊直憲の身の回りのお世話や話し相手をする伽小僧であったため、二人はこの石の周辺で多くの時間を共に過ごしました。
幕末に大坂の天保山台場の警備を命じられた彦根藩は、この地に陣屋を構えます。成長して藩の要職についていた捨三は藩主・直憲公に同行して大坂へ赴きます。その陣屋が置かれた天保山の地で直憲公が毎日この石の傍らで休憩し、かつての庭園を懐かしむように景色を眺めていた姿に捨三は深い感銘を受けました。

のちに大阪府知事となり、大阪港の近代化に尽力した西村捨三は、直憲公との思い出が深いこの名石を譲り受け、自宅に運んで朝夕に愛賞したと伝えられています。
昭和32年(1957年)に西村捨三の銅像が天保山へ再建された際、この碑もゆかりの地である天保山へと移され、彼の功績や藩主との絆を後世に伝えることとなったのです。
展望台 ~ 山頂ではないが眺望の良い高台 ~

天保山公園の中央に位置する展望台は、緑豊かな木々に囲まれた休憩スポットになっています。

この展望台は天保山公園の中で最も高い場所ですが、天保山の山頂ではありません。
ここは戦後に公園として整備された際に景観を楽しめるように土盛りした「高台」であって、「山」ではないのです。展望台で山頂の看板や三角点を探しても見つかりませんのでご注意ください。。

展望台の周囲は豊かな樹木に遮られているものの、木々の隙間からは安治川の穏やかな水面や、対岸に立ち並ぶ倉庫群など港湾エリアのダイナミックな景観を望むことができます。
登頂証明書 ~ 登山の記念に ~

天保山商店会加盟店にて「登頂証明書」を無料で発行して頂けます。私はセブンイレブンで発行して頂きました。登頂に成功した際には、是非記念にどうぞ!

天保山商店会加盟店は道路沿いのエリアマップで確認することができます。

大阪メトロ・大阪港駅に戻ってきました。お疲れさまでした。
いかがでしたでしょうか。
江戸時代・天保年間に誕生した天保山の足元に眠る歴史のレイヤーを一つひとつ紐解いていくと、大阪という都市が歩んできたダイナミックな港湾のドラマが見えてきます。ぜひ皆さんもカメラを片手に、その奥深い物語を探しに足を運んでみてください。
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