大阪湾に面した「堺旧港」は、かつて世界に開かれた日本屈指の国際貿易港でした。その歴史は中世にまで遡り、室町時代から戦国時代にかけて、南蛮貿易や明との交易で莫大な富がもたらされました。当時の堺は、商人たちによる合議制で運営される「自治都市」として栄え、東洋のベニスと称されるほどの活気に満ち溢れていたのです。
しかし、江戸時代になると大和川の付け替えによる土砂の堆積が進み、港としての機能が一時危機に瀕します。この窮地を救ったのが、浅草の商人・吉川俵右衛門らによる大規模な修築工事でした。明治時代には国内最古級の木製洋式燈台である「旧堺燈台」が建てられ、近代化の荒波を象徴する存在となります。
現在は周辺が美しく整備され、潮風を感じながら歴史の足跡をたどれる、絶好の散歩ルートとなっています。いにしえの繁栄に思いを馳せながら、堺旧港の歴史ロマンを巡る旅に出かけましょう!

まずは南海堺駅・東出口からスタートしましょう!
最初の目的地は駅前ロータリーを挟んだ向かい側の「吉川俵右衛門屋敷跡」です。
吉川俵右衛門屋敷跡 ~ 堺を救った浅草の商人 ~

南海堺駅の東側、吾妻橋交差点の脇に佇む「吉川俵右衛門屋敷跡」の石碑です。
吉川俵右衛門はもともと江戸・浅草の商人でしたが、商用で堺を訪れた際、大和川の土砂で衰退していく港の様子を憂い、私財を投げ打って修築工事に奔走した人物です。およそ20年にも及ぶ苦難の末、文化7年(1810年)に現在の堺旧港の原型となる大工事を完成させました。

この功績により、俵右衛門は堺奉行所から永住の許可を得て、内川沿いに屋敷を構えました。俵右衛門屋敷跡の近くにある橋は「吾妻橋」と呼ばれますが、これは江戸の「吾妻橋(隅田川に架かる橋)」にちなんで名付けたと伝えられています。
吉川俵右衛門屋敷跡の石碑は一見すると街中の小さな碑ですが、一人の商人が堺の街を救ったという、熱い歴史ロマンが秘められたスポットです。
橋上ポルト之助像 ~ 知られざるラブストーリー ~

内川に架かる南蛮橋の欄干で、静かに佇む南蛮人(ポルトガル人)のブロンズ像は、1987年の設置以来、長らく名前がありませんでしたが、2023年に公募によって「橋上 ポルト之助(はしのうえ ぽるとのすけ)」と命名されました。

彼の周りの手すりには、色とりどりのリボンが結ばれており、ひときわ目を引きます。これは、ポルト之助と小夜(さよ)という女性の、互いの境遇を超えて惹かれ合う切ない恋物語「やくそくのリボン」にちなんだものです。
「やくそくのリボン」の物語は YouTube で公開されており、物語の主旨に賛同する人々が、それぞれの願いや想いをリボンに託して結びつけています。ちなみに、このリボンは南海堺駅1階の観光案内所にて1本200円で購入可能です。
幕末の堺旧港 ~ 堺の歴史が詰まった石碑群 ~

港へ向かって進む途中には、幕末の堺旧港にまつわる石碑が集められたエリアがあります。
天誅組上陸の地

向かって右側に建つ碑は「天誅組義士 上陸遺蹟碑」です。
「天誅組」は、土佐藩出身の吉村寅太郎ら尊王攘夷派の志士たちが、公卿の中山忠光を擁立して結成した組織です。彼らは「幕府の手を借りず、天皇自らが軍を率いて外国を追い払う(親征攘夷)の先駆けとなること」を目指していました。
文久3年(1863年)8月、彼らは京都を出発して淀川を下り、大坂から海路で堺港のこの地に上陸しました。幕府打倒の先駆けとして大和(奈良)で挙兵を目指した彼らにとって、ここは決意の第一歩を踏み出した歴史的な上陸地なのです。
実際に大和で挙兵した直後に京都で「八月十八日の政変」が勃発したため、天誅組は反乱軍と見なされ、幕府軍の激しい追討を受けて壊滅。計画は失敗に終わりましたが、「命を賭して幕府に反旗を翻した」という行動そのものが、その後の明治維新へとつながる大きな原動力となっていきました。
昭和11年(1936年)に建立されたこの碑は、時代の変革を信じて命をかけた志士たちの熱い足跡を雄弁に物語っています。
堺事件発生の地
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向かって左側に建つ碑は「土佐十一烈士 記念之碑」です。
明治元年(1868年)、堺の街を警備していた土佐藩士と、無断でこの付近に上陸してきたフランス軍艦の水兵との間で衝突が起き、銃撃戦へと発展しました。これが新政府を揺るがした国際問題「堺事件」です。フランス兵11名が死亡したことを受け、フランス政府は明治新政府に激しく抗議しました。そして、責任を問われた土佐藩士11名が、近くの妙国寺で切腹するという悲劇的な結末を迎えたのです。
手前にある石柱はフランス水兵が上陸した場所を示し、その後ろの黒い石碑「土佐十一烈士記念之碑」は非業の死を遂げた藩士たちの哀悼と不屈の精神を今に伝えています。
幕末の不穏な空気と、近代化前夜の激動を感じずにはいられない歴史スポットです。
旭橋親柱跡

天誅組や堺事件の碑が並ぶ広場の一角に、かつてこの地に架かっていた「旭橋の親柱」が保存されています。港町・堺の玄関口を支えた橋の名残であり、当時の街並みをしのばせる貴重な遺構です。
この旭橋には、もう一つ興味深い話があります。それは、大手ビールメーカー「アサヒビール」の社名の由来になったという説です。創業者の一人・鳥井駒吉が堺出身だったことから、生家近くの「旭橋」や、この一帯にかつて存在した社交施設「旭館」にちなんで「アサヒ」の名が採用されたという話が地元では語り継がれています。
呂宋 助左衛門像

さらに下流に進むと、幅12m、高さ7.6mの門が2つ並ぶ堅川水門が現れます。高潮や台風等の非常時には最速6分で閉門するそうです。

堅川水門の前には堺旧港の青い海と広い空が目に飛び込み、とても開放的な眺望を楽しむことができます!

そして、海に向かって力強く右手を掲げる男性の銅像が「呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん)」です。
彼は戦国時代から安土桃山時代の堺を代表する豪商で、文禄2年(1593年)にルソン(フィリピン)へ渡り、現地から持ち帰った「ルソン壺」を茶壺として売り出すことで莫大な富を築きました。のちに豊臣秀吉の怒りに触れてカンボジアへ亡命したとされますが、商人の力で世界へと雄飛した、自由都市・堺の象徴的な人物です。
昭和53年(1978年)には彼を主人公としたNHK大河ドラマ『黄金の日日』が放送され、一躍全国にその名が知れ渡りました。この銅像はドラマを記念して昭和55年(1980年)に建てられ、旧堺市民会館に設置されていましたが、建て替えに伴い、平成27年(2015年)に現在の場所へ移設されたものです。

呂宋助左衛門は遥か対岸に見える「龍女神像」へ向かって手を掲げているようにも見え、かつて世界へ挑んだ大商人のロマンを肌で感じられる特等席です。
堺旧港を散策 ~ 南国リゾートのような開放感 ~

それでは、堺旧港の先端に現存する旧堺燈台まで歩いていきましょう🚶➡️
堺旧港の護岸は、高潮などの災害から街を守るために堤防を高くするなどのしっかりとした安全対策が施されています。しかも、ただ安全にするだけではなく、昔ながらの港の形を大切に残しながら、水辺を散策することもできる「階段式の護岸」としてオシャレに整備されているのです。

穏やかな波が寄せる水面に白いボートが佇み、背景に並ぶヤシの木がまるで南国リゾートのような開放的な雰囲気を醸し出しています。綺麗に整備された遊歩道は、潮風を感じながらのんびりと散策するのにぴったりなロケーションです。

何といっても目立つのは対岸から堺旧港を見つめる「龍女神像」です。後ほど、あちら側にも行ってみましょう。

堺旧港の出入口付近は海というより川です。今歩いている護岸も運河歩道と呼ばれているそうです。
史跡 旧堺燈台 ~ 日本最古級の木造様式燈台 ~

ウォーターフロントの最先端に佇む、美しい白亜のタワー。明治10年(1877年)に建てられたこの燈台は、建てられた当時の位置にそのまま現存する木製洋式燈台としては日本最古級のもので、昭和47年(1972年)に国の史跡に指定されています。
驚くべきは、その建築資金の多くが地元の堺市民(当時は堺県)たちの寄付によって賄われた点です。約100年間にわたって大阪湾を航行する船の安全を守り続けた燈台は、周辺の埋め立てに伴い、昭和43年(1968年)に役目を終えましたが、世界に開かれた港町・堺の誇りと心意気が今も息づいています。

青い海とクラシカルな白い燈台のコントラストは写真映えも抜群! 明治の近代化ロマンを肌で感じることができます。

周辺はモダンな階段式護岸とともに、心地よい憩いの広場となっています。
巨大壁画「浪漫やさかい~時代を越えて通じるロマン~」

旧堺燈台から対岸を見渡すと、思わず目を奪われるのが工場壁面に描かれた迫力ある巨大壁画です。
この壁画には、かつて南蛮貿易でアジア屈指の国際貿易都市として栄華を極めた堺港の様子が生き生きと描かれています。荒波を越えてやってきた大きな南蛮船や、異国の衣装に身を包んだ人々が港を行き交うパレードのような光景は、眺めているだけでまるで400年前の華やかな時代にタイムスリップしたかのようなワクワク感を味わえます。

壁画の説明が記された案内板も設置されています。夕暮れ時になると、傾いた太陽の光が壁画と水面を優しく照らし、さらにドラマチックな美しさへと変化するそうです。
龍女神像(愛称:乙姫さん) ~ 平和と繁栄のシンボル ~

次は対岸に建つ「龍女神像」を目指して歩きましょう🚶➡️
台座の高さは16メートル、銅像の高さは10メートルを誇り、抜群の存在感です。

堺旧港の北側は、ヨットやモーターボート、大小さまざまなプレジャーボートが身を寄せ合う船だまりになっています。


堺旧港を見下ろす高い台座の上に凛と佇むブロンズの女神像「龍女神像」。
その歴史は古く、明治36年(1903年)に開催された「第5回内国勧業博覧会」の堺会場(大浜公園)の水族館前に設置されたのが始まりです。博覧会終了後も水族館とともに残り、「乙姫さん」の愛称で広く市民に親しまれてきましたが、昭和49年(1974年)の水族館閉館に伴って惜しまれつつも撤去されてしまいました。
しかし、平成11年(1999年)の堺市制110周年を記念し、平和と繁栄の象徴として、翌2000年に現在のウォーターフロントの地に復元されました。堺の海を見守る新たなシンボルとして、モダンな遊歩道や護岸の風景に美しく溶け込んでいます。
幕末の堺港を語る標柱石 ~ 江戸時代の標柱 ~


龍女神像のすぐ後ろに建てられている標柱石は、慶応元年(1865年)に堺港に設置されたと考えられる歴史的な遺構です。当時、港の管理を行っていた役所「新地方」が、港に出入りする船に対して運行上の注意を促すために設置したものと考えられます。
平成11年(1999年)に北波止の突堤近くから下部が出土し、その後、令和2年(2020年)に失われていた上部が奇跡的に発見され、20年の時を経て再び一つの姿へと戻りました。
建てられた当初の正確な位置は分かっていませんが、国際貿易都市として激動の幕末を迎えていた堺港のリアルな日常や、当時の港湾管理の様子を今に伝える極めて貴重な歴史資料です。
吉川俵右衛門顕彰碑 ~ 偉大な功績を讃える石碑 ~

厳重な鉄柵に守られるように立つ大きな石碑は、江戸時代に堺港の危機を救った吉川俵右衛門の功績を称える顕彰碑です。
今回の散歩で最初に訪れた屋敷跡でもご紹介の通り、浅草の商人だった吉川俵右衛門は堺の人々と協力しながら大規模な港の修築工事に尽力しました。

多くの困難を乗り越え、およそ20年にも及ぶ大工事の末、現在の「堺旧港」の原形となる美しい港を完成させた俵右衛門。明治33年(1900年)、その偉大な功績を後世に伝えるため、港を見下ろすこの地に顕彰碑が建てられました。

現在の美しい景観があるのは、この江戸の商人の情熱と執念のおかげなのですね。
与謝野晶子像 ~ 堺の海を愛した天才歌人 ~

南海堺駅の西口ロータリーには、堺が生んだ天才歌人「与謝野晶子」の銅像が建てられています。
与謝野晶子が生まれ育った実家から堺旧港までは歩いてすぐの距離で、少女時代には堺港の潮風や行き交う船を身近に感じながら過ごしました。港町ならではの開放的な風景や文化に触れた日々は、彼女の豊かな感性を育む土壌となったといわれています。
銅像の台座には、故郷・堺の海を想って詠んだ美しい短歌が刻まれています。
「遠つあふみの 針の穴よりわが見しに おぼまがふかな 堺の夏の海」
今回の散歩の締めくくりとして、晶子が見つめた港の風景や潮の香りに思いを重ねてみると、堺旧港の魅力をより深く感じられることでしょう。

南海堺駅・西改札口に到着です。お疲れさまでした!
かつて国際貿易都市として栄え、激動の歴史を歩んできた堺旧港。
今回ご紹介した「旧堺燈台」や「龍女神像」をはじめ、交易で巨万の富を築いた大商人「呂宋助左衛門」、港の危機を救った江戸の「吉川俵右衛門」、そしてこの海を愛した「与謝野晶子」にいたるまで、ここには世界の海へ挑み、海とともに生きた人々の壮大なドラマが今も息づいています。
皆さんも次の休日はカメラを片手に、堺旧港の記憶をたどる歴史散歩へ出かけてみませんか?
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